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唐菓子について


07 July 2026 | By 胡一平 | SISU

一、唐菓子の伝来と多様な定義

 唐菓子は、中国(唐代)から仏教とともに日本に伝わった菓子の総称であり、日本の和菓子文化に大きな影響を与えました。その製法は、米、麦、豆などの粉に甘味料である甘葛(あまづら)の煮詰めた汁を加えて生地を作り、特徴的な形に成形して油で揚げるというものでした。「からがし」や「唐果物」とも呼ばれ、当時は果物を菓子と呼んでいたため、「唐果物」とも呼ばれていました。唐菓子は、遣唐使によって、7~8世紀に唐から日本へ持ち込まれました。中国の唐時代には既に作られていたことが知られていますが、日本における文献上の初出は、平安時代中期に成立した『倭名類聚抄』です。    

しかし、「唐菓子」の定義は、中国全般から伝来したものと捉える文献と、唐代に日本に持ち帰られたものに限定する文献があり、菓子研究における基本的な議論の対象となっています。また、すべての「唐菓子」が純粋に唐から伝来したものであるとは限らず、原型が伝来した後に、日本人の味覚や文化に合わせて独自の変化を遂げたものも「唐菓子」として認識されていた可能性があります。その多様な形態と製法は、日本の菓子作りに新たな技術と発想をもたらし、後の和菓子発展の基礎となりました。これらの唐菓子は、宮中の節会や大寺、大社への供物として用いられ、神仏事用の加工食品として扱われたため、一般庶民の口には入らない貴重なものでした。

二、「菓子」の概念の変遷と日本の粉食文化

 古代日本において「菓子」という言葉は、本来「果子」と書き、野生の木の実や果物を指していました。しかし、唐菓子の伝来と共に、米、麦、豆などの穀物を粉にして加工した菓子が普及し始めると、「菓子」の概念は自然の「果子」と、人の手による加工食品としての「人工菓子」の両方を含むように変化しました。唐菓子は、奈良時代には存在し、平安時代には宮廷や神社における重要な供物として用いられるほどに広まっていました。これらの菓子が米や麦の粉を原料としていたことから、日本の粉食文化の発展に貢献したと考えられます。しかし、当時の日本では米の粒食が中心であり、粟や稗と比較して小麦の脱穀は複雑で、粉砕のための適切な道具も不足していたため、小麦粉を主原料とする粉食文化が一般に浸透するのは中世以降のことでした。この背景から、唐菓子の普及は一部の上層階級や祭祀用途に限られていたと考えられ、日本の食文化における穀物の位置づけが、加工菓子の発展にも影響を与えていたことが示唆されます。

三、古典に見る唐菓子の姿

唐菓子に関する最も初期の重要な文献記録は、平安時代中期に編纂された『倭名類聚抄』に確認できます。この百科事典の巻第十六飲食部にある「歓喜団」の項には、「楊氏漢語抄」の原注として「八種唐菓子」が挙げられています。これには、梅枝(ばいし)、桃子(とうし)、餲餬(かっこ)、桂心(けいしん)、黏臍(てんせい)、饆饠(ひちら)、鎚子(ついし)、団喜(だんき)といった具体的な菓子名が含まれており、これらは米、麦、大豆、小豆などの粉を練り、油で揚げるなどして作られ、その特徴的な形状から祭祀用として珍重されたとされています。また、源氏物語の中には「粉熟」という唐菓子が記されています。それぞれの唐菓子の製法や形は様々で、例えば、「梅枝」は米粉を蒸し、T字型や鍬形に形を整えて着色し、油で揚げたものでした。「団喜」は小麦粉を練って餡を包み油で揚げたものでした。しかしながら、『倭名類聚抄』はこれらの菓子の具体的な製法を詳述しておらず、そのため唐菓子の製法は時代と共に様々な変化を遂げた可能性が高いと推測されています。また、『倭名類聚抄』はこれら「八種唐菓子」の他に、餢飳(ぶと)や索餅などを含む14種類もの菓子を「果餅」として紹介しており、当時の菓子文化の多様性を示しています。

四、鎌倉・江戸時代の唐菓子研究

平安時代に伝来し、日本の食文化に溶け込んでいった唐菓子は、時代と共に製法や形態が変化し、様々な文献によってその姿が伝えられてきました。特に鎌倉時代には、唐菓子について網羅的に紹介した書物として『厨事類記』が存在します。この文献からは、当時の唐菓子の生地に使われていた多様な素材が明らかになっており、具体的には、うるち米を原料とする生地、もち米と大豆の粉に塩を加えた生地、さらには小麦粉や小豆の粉をベースにした生地などが見て取れます。これは、唐菓子が単一の製法に留まらず、日本の風土や食習慣に合わせて進化を遂げていたことを示していると考えられます。 

また、江戸時代中期に著された『集古図』には、大膳職、公家、そして神社といった特定の機関や家系に伝わる唐菓子の図が多数収録されており、その多くが後世の書物にも引用されるほど貴重な史料となっています。これらの図からは、唐菓子が伝統的な儀礼や上流社会で長く重んじられてきた様子がうかがえます。

五、明治以降の唐菓子

日本の伝統的な菓子、唐菓子は、明治時代に入り大きな変容を遂げました。明治初期の神仏分離令、そして国家神道政策に伴う儀式改革は、祭祀における供え物の形態に影響を及ぼしました。神への供え物は、未調理の生鮮食品「生饌(せいせん)」が基本とされ、調理された「熟饌(じゅくせん)」を供える習慣は、ごく一部の神社に残るのみとなりました。しかし、古くから祭祀に用いられてきた唐菓子は、その伝統的価値と象徴性から、一部の重要な神社で熟饌として供え続けられました。現在、神社に供えられる唐菓子としては、梅枝(ばいし)、団喜(だんき)、餢飳(ぶと)、糫餅(まがり)などが挙げられ、これらの菓子は特定の神社の祭祀で目にすることができます。例えば、伊勢神宮では梅枝、餢飳、糫餅などが、熱田神宮では餢飳、糫餅などが、春日大社では「兎餅」と呼ばれる唐菓子が、それぞれ神聖な供物として用いられています。これらの例は、唐菓子が単なる菓子としてだけでなく、日本の宗教的・文化的な伝統を伝える存在として、時代を超えて受け継がれていることを示しています。

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