マスコミ対応
SISU News Center, Office of Communications and Public Affairs
Tel : +86 (21) 3537 2378
Email : news@shisu.edu.cn
Address :550 Dalian Road (W), Shanghai 200083, China
関連情報
市川崑が描く『野火』——戦争の虚無と人間の極限
14 November 2025 | By 李泓英 | SISU
市川崑が1959年に発表した映画『野火』は、日本戦後映画の中でも際立った存在感を放つ作品であり、極限状況における人間の精神的崩壊と倫理の瓦解を、鋭利かつ透徹した映像感覚で描き出した名作として高く評価されている。原作は大岡昇平の同名小説で、第二次世界大戦末期のフィリピン戦線を舞台に、孤立した日本兵・田村の彷徨を通して、絶望と飢餓に浸食されていく人間の内奥を深く抉る物語である。市川はこの原作がもつ内省性や宗教的深みを損なうことなく、映画というメディア特有の視覚的・聴覚的強度を用いて、戦争の惨禍を冷徹かつ容赦なく可視化することに成功している。
市川版『野火』を特徴づけるのは、まずその卓越したモノクロ映像である。灰白のコントラストが際立つフィリピンの荒野は、生命が急速に失われていく場であると同時に、主人公の精神の荒廃を象徴する空間として機能する。派手な戦闘シーンはほとんど登場しないものの、飢えにむしばまれ、生気を失った兵士たちの姿は静謐な迫力を帯び、戦争の本質が“人間性をじわじわと侵食する過程”として描かれている点に、市川独自の視座が光る。
主人公・田村の変容は、本作の核を成す主題である。病弱ゆえに部隊から追い出され、孤立無援で彷徨する田村は、生き延びることそのものが倫理をも圧倒するようになる。市川の演出は、人間の最も脆い部分が露呈していく過程を、過度な説明に頼らず、極力削ぎ落とされた台詞と精緻に計算されたカメラワークによって描写する。飢餓がもたらす幻覚のような光景や、救いを求めつつも徐々に理性を手放していく田村の表情の変化が重ねられることで、観客は「人間性とはどこまで保たれるのか」という根源的な問いに直面せざるを得なくなる。
さらに、市川作品にたびたび見られる「静謐の中に潜む狂気」は、本作においても鮮明である。自然音、兵士の足音、遠雷のような爆撃音といった最小限の音響が緊張を生み、戦場を覆う不気味な沈黙を際立たせる。暴力が直接描かれる場面は少ないが、むしろその“不可視の暴力”こそが観客に深い恐怖と余韻を残す。特に終盤、田村の視界に揺らめく「炎」の象徴性は卓越しており、戦争が孕む破壊と虚無、そして人間の内なる狂気を詩的でありながら残酷に示している。
『野火』は単なる反戦映画ではない。そこに刻まれているのは、戦争という極限状況の中で、人間がどのように変容し、どのように尊厳と倫理を失っていくのかという、普遍的かつ哲学的な命題である。市川は原作が抱える宗教的テーマ――罪、救済、人間の弱さ――を映像表現へと昇華し、観客が田村の内面へと深く沈潜していくような没入的演出を成し遂げている。
今日に至るまで、『野火』が戦争表象研究やトラウマ研究の文脈で繰り返し論じられるのは、この作品がもつ普遍性によるものだ。極限状況に置かれた人間の姿を冷徹な眼差しで捉えると同時に、戦後日本が抱えた深い精神的傷痕を可視化した本作は、世代を超えて見継がれるべき重要な映画である。市川崑版『野火』は、戦争映画の枠をはるかに超え、人間存在の根源へ迫る映像表現として、いまなお強い輝きを放ち続けている。
マスコミ対応
SISU News Center, Office of Communications and Public Affairs
Tel : +86 (21) 3537 2378
Email : news@shisu.edu.cn
Address :550 Dalian Road (W), Shanghai 200083, China
