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革命の上海で


14 September 2021 | By 王竣磊 | SISU

    1926年、日本・長崎、一人の青年が船に乗った。目的地は中国・上海、「魔都」と呼ばれる異国の土地であった。冒険という言葉に唆されたためか、中国に対する好奇心を満たそうとしたためか、あるいは、何らかの政治的・経済的な利益を求めようとしたためか、当時、多くの日本人は中国へ渡航してきた。この18歳の青年もおそらくその風潮に煽てられて旅に出かけたのであろう。

 「青い海の色が薄褐色に変わる河を進み、呉淞を左に旋回して黄浦江に入る。両岸の楊柳が緑の幕を引いたように美しかった。ところがまず私の目にはいったのは、黄浦江の左岸に立っていた大きな『仁丹』の大看板だった。『ここが支那大陸か?』と、私は一瞬自分の眼を疑った。やがて両岸には大きな工場が見えてきたが、それらはほとんど日本やイギリスなど外国資本の工場だった。」(『革命の上海で』より)

 青年の名は西里竜夫(にしざと たつお)。船から初めて目にした上海の町々を生き生きと感じたが、この先どのような運命が待ち構えているのか、全く知らなかったのである。上海という国際的大都会で、西里の舞台は幕を開けた。

 西里が向かったのは東亜同文書院、そこで学問を研鑽する志向であった。日中両国間の交流を促進することを表に目標として掲げた東亜同文書院は、裏で諜報活動のための「中国通」の育成を担っていた。

 そのような現状に不満を感じた西里はそこで教員の王学文と知り合い、指導を受けた。京都帝国大学経済学部を卒業し、日本で十数年間の生活を送っていた王であったが、実は中国共産党員として秘密に活動していた。やがて西里は王が立ち上げた「中国問題研究会」に参加した。研究会は当時の左翼翻訳家・温盛光の四川北路永安里の寓居を根城にして行われ、西里はそこでマルクス主義という真新しい世界に接した。

 1930年、西里は卒業し、『上海日報』の記者になった。同年7月、研究会を母胎とした「日支闘争同盟」が結成し、理論の学習から実践運動に乗り出す姿勢であった。西里も当然のことに同盟に参加し、在上海の日本陸戦隊の兵士や停泊している駆逐艦の水兵たちに中日両文の反戦ビラを撒く、といった反戦活動を実行した。日本の軍国主義、そして戦争そのものへの反対と抵抗が西里の頭の中に強く根付いた。

 19321月、第一次上海事変が突発。軍が書院の学生に戦争への参加を強要したが、西里は引き続き反戦運動に身を投じ、学生に向けて戦争への不参加と日本への帰国を呼びかけた。結果、宣伝が奏功し、学生全員は日本へ帰る船に乗った。西里もこれで一旦帰国した。

 1933年、西里は再び上海に渡り、新聞聯合上海局で記者の職に就いた。翌年、西里は昔の先生である王学文に会い、いよいよ、中国の革命に献身したい、と胸の中に潜んでいた志と情熱を打ち明けた。顧みると、上海の土地に足を踏み入れてから既に9年間という長い年月が経った。東亜同文書院での学習、マルクス主義との出会い、反戦運動への参加、さらに目の当たりにした三次暴動とクーデター、上海という都市で起こったすべてが西里という青年を鍛え上げ、精神の核を築き上げてきた。1934年、西里竜夫は正式に中国共産党に加入した。西里青年は西里同志に生まれ変わったのである。

 上海での歳月は西里にもう一人の戦友を出合わせた。中西功である。中西は西里の後輩として東亜同文書院に入学したが、やはり王学文の影響と指導から革命と反戦の道を歩み始めた。後世にゾルゲ事件で名を残した尾崎秀実と知り合い、自分の能力で権力の核心に近い位置まで打ち込んだ中西は大連へ派遣されたため、先輩の西里より3年遅れて1937年に中国共産党に加入したが、その3年間二度もわざと東北から上海へ赴き、西里と反戦運動・日本軍の動向について語り合った。

 1938年、中西は望み通りに上海へ派遣され、西里と合流した。これからの4年間、先輩・後輩の二人は上海・南京を中心に諜報活動に携わっていった。施高塔路(現山陰路)にある中西の住居を拠点とし、尾崎から受け取った情報も含め、日本軍に関する情報が次々と延安へ送られていた。二人の手によって中共、そしてソ連へ伝えられた情報は、日本軍の南方作戦の決定、真珠湾攻撃の時期など、いずれも戦争ひいては世界の動向を左右したものであった。

 これは諜報活動に従事した人々の運命かもしれない。ゾルゲ、尾崎秀実の逮捕から次第に拡大されていく、一連の諜報団事件が中国にいる西里と中西に襲い掛かってきた。危険を重々承知していても、二人は死を覚悟して依然として中国での使命を全うしようとしていた。19426月、西里は南京で逮捕され、戦友の中西も杭州で逮捕された。二人が手を組んで作り上げた上海諜報戦の奇跡もこれで幕を閉じたのである。

 1973年、戦友であった中西功は先に世を去り、彼が見た中国は1942年で最後であった。逮捕された後、屈服しない二人は監獄生活をしのぎ、『中国共産党史』まで著した。ようやく戦争が終わり、日本はアメリカによって改造され、「戦後」に突入した。釈放された二人はそれからもずっと共産主義者として平和活動に献身していたが、再び中国へ行く機会の到来は胃癌に苦しめられた中西にとってどうも遅かった。

 「今次、私の訪華に際し、多大の配慮を蒙り、多年の念願が実現出来ました。」(方知達への手紙の冒頭部分)

 1982年、戦友の思いを背負って西里はようやく中国の土地へ旅立った。もうその時の青年ではなかった。もう戦争と関わる必要もなかった。もう昔の中国ではなかった。このたび、生まれ変わった上海の町々は古稀を越えた西里老人の目にどう映っているのであろうか。

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