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魯迅と内山完造
14 September 2021 | By 程晨 | SISU
魯迅と深い関係がある多倫路文化名人街を散策すると、数多く像の中で、唯一の外国人は日本人の内山完造である。なぜ内山完造なのか。今回は魯迅と内山完造の話について皆様に紹介したいと思う。
二人が知り合いになったのは1927年のことだった。この年、蒋介石一味のクーデターに抗議した魯迅は広州中山大学を辞め、妻である許広平と共に上海に移住した。本を買うために内山書店を訪れ、書店の主人である完造と友達になった。二人の十年にわたる付き合いはこうして始まった。
魯迅が上海にいた十年は生涯最後の十年であり、彼のもっとも輝かしい十年であり、闘争が最も厳しい十年でもあった。1930年3月、魯迅が中国左翼作家連盟創立大会で講演した後、当局に指名手配された。その時、完造は魯迅を店内に一ヶ月間も匿った。
内山書店があった場所には、現在、中国工商銀行の支店が建てられていますが、最近はほとんど銀行の機能をなくして、内山書店の紹介に専念する。
1931年1月、柔石をはじめとする5人の革命的青年作家が反動政府にひそかに捕えられ、殺された。魯迅も危ないという噂が漂っていた中、完造は、魯迅とその家族を日本人が経営する「花園旅館」に匿った。魯迅が自分のマンションに戻る一ヶ月以上の間、完造はずっと魯迅のために、昼間に情報を収集し、夜になると魯迅を見舞った。
魯迅はマルクス主義の本を読みたがったが、当時そんな本を簡単に買えるわけがなかった。それを聞いた完造は、東京から取り寄せたりもした。1932年、内山書店は魯迅の著作を発行し始めた。
1933年、魯迅は内山書店のすぐ近くにある大陸新村に移った。これは完造が中国人店員の宿舎として借りたものだった。当時魯迅は、共産党狩りをしていた蒋介石から、強力な支援者として手配されていたので、ほとんど家から外出しなかった。官憲の目を避けるため、玄関に「内山完造」という表札をかけた。それだけでなく、電気代や水道代などの支払いも、郵便物の発想や受け取りも書店の名を使った。それは本人の意思というより、完造のアドバイスによるものだったとされている。
上海事変が起きた時、戦いは大陸新村付近にまで及んできた。当局に発見されそうになった時、完造はもう一度魯迅一家を書店の二階に匿った。そして一週間後、イギリス租界にある内山書店の支店に魯迅らを逃した。
魯迅が病気になった時、完造は彼のために医者を頼み、薬を届けた。1936年10月18日未明、魯迅の病状が突然悪化し、日本語で完造に手紙を書き、须藤医師の来訪を頼んだが、19日生涯を閉じた。彼が息をひきとる時、身内の者のように傍で見守ったのも完造だった。
内山完造は戦後の1950年から日中友好協会の会長として、日中の関係修復に向けて生涯を捧げた。1959年、戦後三度目に中国を訪問した時、北京で74歳の生涯を閉じた。彼の願った通りに、上海の万国公墓に骨を埋めた。
魯迅と完造の間に固く結ばれた友情に心を打たれた。魯迅先生は不幸な時代に生まれたが、中国と日本の人々の間に、きっと相互理解する日がくると固く信じていた。今日良好な中日関係は、彼らの努力の賜物だ。中日友好が末長くなるように、我々青年たちも自分なりに努力しなければならない。
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